004 城丸君事件 K

(被害者・関係者は仮名、敬称一部略)
事件概要
 昭和59年1月10日、札幌で小学生が行方不明となる。4年後、一軒の焼けた農家の納屋から人骨が発見される。当時のDNA鑑定の技術では その人骨が小学生のものとは断定できなかったが、発見から10年後、その人骨が小学生のものであると断定。
 小学生が行方不明になってから14年後、容疑者としてKが逮捕、起訴されが、Kは完黙をつらぬき通し無罪となる。

小学生行方不明
 昭和59年1月10日朝、札幌の城丸家に1本の電話がかかってきた。電話に出たのは、秀徳君(当時9歳)。秀徳君は 誰とも代わる様子なく「はい、はい」と答え、電話を切った秀徳君は「ちょっと出かけてくる」と言い出した。 母親がどこへ行くのと「ワタナベさんのお母さんが、僕のものを知らないうちに借りた。それを返したいといっている。 函館に行くと言っている。車で来るから、それを取りに行く」と答えた。家族の誰もが何を言ってるのか分からなかった。
 そうこうしているうちに、秀徳君は家を出ていった。秀徳君の行動を不信に思った母親は小学6年生の兄に 後を追うように頼んだ。兄は秀徳君の後を追った。秀徳君は「二階荘」というアパートに入っていくように見えたが、 兄は近眼の為、秀徳君が正確に「二階荘」に入っていったかどうかまでは確認できなかった。「二階荘」の隣にはワタナベ家である。 兄はしばらく待ったが、秀徳君が現れなかったので一度家に戻り、今度は兄の報告を聞いた母親もついてきた。
 二人で待っていても秀徳君は現れない。そこで母親はワタナベ家のインターホンを鳴らした。当時、ワタナベ家には高校三年生の娘が 一人で留守番をしていたが、母親の問いに対して、彼女は秀徳君が訪ねて来たことはない、電話もしていないと言う。母親は途方にくれ しばらく家族で秀徳君を探し回ったが見つからない。そして12時30分、地元の交番に捜査を依頼。秀徳君が行方不明になってから3時間 後のことである。
 警察官は捜査の依頼を受け、周囲の聞き込みを行った。そして、案外早くに手がかりをつかんだ。「二階荘」の二階にすむ若い母親 Kが、秀徳君らしき小学生の男の子が訪ねてきたと証言したのである。当時Kは、2歳になる娘と二人暮らしで、ホステスの仕事を辞めた ばかりであった。Kは警察官に対し、次のように証言している。
 「小学生くらいの男の子が部屋の前に来て、『ワタナベさんの家を知りませんか。まっすぐ行って階段をのぼる家だと聞いたのだけれど』 と聞くので『隣の家はワタナベさんだけどその家ではないの』と答えたら『どうも』と言ったので、自分の部屋に入り玄関のドアを閉めた」
 警察官はワタナベ家も訪ねている。しかしワタナベ家の女子高生は秀徳君の母親へと同じ答えを繰り返すだけだった。警察官は任意で ワタナベ家の中を捜査したが、秀徳君の姿はなかった。
 その後、警察は公開捜査に踏み切ったが、有力な目撃情報や手がかりは全く無かった。秀徳君は「二階荘」あたりで、Kを最後の接触者として、 忽然と姿を消したのである。


進展・起訴
 事件が意外な展開を見せたのはそれから4年後である、北海道の新十津川町にある焼けた農家の納屋から、秀徳君のものと思われる人骨が 発見された。その農家は12月30日に全焼し、家主の夫が死亡、妻と娘は逃げ出して助かった。その火事から半年後、燃え残った納屋に 残されていた人骨を、亡くなった夫の親戚が見つけたのである。農家の主婦はK、秀徳君の最後の接触者である。道警ではその人骨を解析し 血液型や歯の大きさから、行方不明になっていた秀徳君のものであると推定した。道警は失踪当時からKに多額の借金があり、身代金目的 で秀徳君を誘拐し、殺害したと考えていたのだ。
 鑑定の結果が判明すると、道警はKを任意聴取に呼び出した。このときの捜査ではKが1月10日の夕刻、「二階荘」から大きな段ボールを 運びだし、親族の家に運び込んでいる。その段ボールは彼女とともに移転を繰り返し、最終的に新十津川の家で燃やされている。
 だがKは人骨について「何も知らない」と容疑を否認した後、完全黙秘を貫いた。札幌地検はこの時、かなり真剣に起訴を検討したが、 当時のDNA鑑定では人骨が秀徳君のものであると完全には特定できなかった。他に有力な物証もなく、結局起訴を断念した。
 しかし、それから10年後、DNA鑑定の進歩もあり道警は人骨が秀徳君のものであると断定し、Kの逮捕に踏み切った。しかし、Kは 逮捕後も容疑を否認したまま沈黙を貫いた。

 
もう一つの疑惑
 Kには秀徳君の誘拐・殺害以外にもう一つの疑惑がある。Kは秀徳君が行方不明になった2年後の昭和61年6月に新十津川町の農家の 男性・澄夫さんとと再婚する。Kと娘は澄夫さんの家に移り住み、新たな生活を始めるが、寝室、冷蔵庫、洗濯機は別々、農作業の手伝いもせず 食事もあまり作らず、時々娘を連れてフラッと札幌に出かけ、一週間位戻らないこともあった。
 結婚してから、澄夫さんの顔色はだんだん悪くなり、保険の名義も書き換えられ、家を建てるつもりで貯めていた二千万円もKに使われていた。 親戚が真剣に離婚をすすめようとしていた二年目の冬の昭和62年12月30日未明、澄夫さんの自宅が火事になったのである。
 午前3時頃、澄夫さんの寝ている二階から出火した火は午前5時に鎮火した。Kと娘は逃げて無事だったが、澄夫さんは焼死した。
 この火事には不審な点が数多くあった。深夜の火事にも関わらず、Kと娘は外出用の身支度をきちんと整えていたのである。また、燃え残った 納屋からは、持ち出した衣装箱がきちんと積み上げられており、中にはKと娘の衣類や品物ばかりで澄夫さんのものは全くない。
 1階で寝起きしていた彼女が、出火時になぜ119番通報できなかったのかという疑問も残る。助けを求めた隣家もすぐ近くの家でなく、300メートル も先にある2番目の隣家であった。しかも、その家の戸を叩くこともせず、ただ黙って娘の手を握り、玄関のチャイムを鳴らしていたという。
 澄夫さんには2億円近い保険がかけられており、保険金目的の放火殺人ではないかと疑がった。しかし、消防署が出火原因を突き止められず捜査は 行き詰まり、Kも保険金を請求することなく、新十津川町を立ち去ってしまった。
 それから、半年後の6月、焼け残った納屋の中で、人骨が発見されたのである。

判決
 平成13年5月30日、Kの判決が言い渡された。非常に犯人である確率が高いが証拠がなく、判決は意外なことに無罪であった。ただ 無罪であったものの無実を認めたわけではない。Kが犯罪により秀徳君を死亡させた疑いが残るが、殺意をもって死亡させたとまでは 言い切れないと言うのが、無罪の理由である。なぜ、犯罪は認めたのに無罪になったのか。
 すべては時効の問題である。人骨のDNA鑑定や、段ボール箱などの状況証拠などに関する検察側の主張はほぼ認められ、Kが秀徳君を 死亡させた疑いは強いとした。しかし、決定的な証拠がなく、その行為に殺意があったかどうかは認めることをしなかった。殺人罪は 「殺意をもって」死亡させたときにのみ適用される。それ以下は障害致死となる。しかし、Kの場合、傷害致死の時効は逮捕の7年10か月 前に成立しており、検察は殺人罪でしか起訴できなかったのである。
 検察側はこの一審の判決を不当であるとしてすぐに控訴したが、平成14年3月、高裁は検察側の控訴を棄却し、これによってKの無罪は確定した。 また、放火殺人の件も時効が成立した。

その後
 平成14年5月、Kは札幌地裁に対し、1160万円の刑事補償を請求した。刑事補償とは、刑事裁判で身柄を拘束された上で無罪となった場合に支給される補償金のことで、 Kは拘束されていた928日に対し、一日当たりの上限12500円を請求したのである。また、この他にも裁判費用も請求した。
その半年後の11月、札幌地裁はKに対して刑事補償928万円と弁護士費用250万円の支払いを認める決定をした。




 <参考資料>
  ・殺人者はそこにいる―逃げ切れない狂気、非情の13事件 (新潮文庫)
 



003 事件の扉 005
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