022 夕張保険金殺人事件 日高安正・信子・石川清

(被害者・関係者は仮名、敬称一部略)

左から日高安正・信子


事件概要
 1984年5月5日、北海道夕張市鹿島の炭坑下請け「日高興業所」作業員宿舎で火災が発生。 この火災により、労働者4人とまかない婦の子供2人が焼死した。日高夫妻は労働者4人の生命保険1億3800万円を手に入れた。
 当初は失火と見られたが、火をつけた作業員・石川清(当時24歳)の供述により 保険金目的の放火殺人ということがわかる。8月、興業所経営の暴力団組長・日高安政(当時41歳)と妻・信子(当時38歳) が逮捕された。

日高夫妻
 日高安正は1943年に7人兄弟の6番目の子として、様似町で生まれた。兄たちの影響を受け、店舗荒らしなどを小中学校のころから行い 遠野町の「北海道家庭学校」で義務教育を終えた。
 義務教育終了あとは、トラック運転手、土木作業員などの職を転々とし、17歳のころヤクザの世界に入った。1968年に結婚、一女を もうけている。

 日高信子は1946年に炭鉱員の家庭で生まれた。小学校は安正と同じ学校で、道立夕張高校在籍時は「女番長」として知られていた。 高校卒業後は東京の専門学校に入学。1年後に夕張に戻り暴力団構成員と結婚し一女を設けるた、夫は死亡しバーのホステスとして 働くようになった。安正とはそのバーに客として知り合い同棲生活を始める。安正はこの頃、妻と離婚している。  


保険金取得
 1970年ごろ、安正は「日高班」という炭鉱員を現場に派遣する会社を興した。1976年に「日高班」は有限会社「日高工業」となる。 しかし、安正は知り合い女性と上京、信子も従業員と駆け落ちし1977年に「日高工業」は倒産した。
 やがてそれぞれ相手と別れた2人は縁りを戻し、有限会社「鹿島工業」を設立。安正はこの頃、暴力団総長と知り合い、初代誠友会日高組 組長を名乗り始めた。

 1978年、安正は執行猶予中に覚醒剤をやり、懲役2年6ヶ月を言い渡された。  信子は「鹿島工業」をたたみ、新たに「日高工業」を女手ひとつで始めた。その頃「北炭夕張炭鉱事故」が起こった。  1981年、北海道夕張の「北炭夕張新鉱」の坑口から3000メートルの地点でメタンガスが発生。救出作業中に作業服の静電気から 引火し、火災が広がった。火災は何日たっても鎮火せず、4ヶ月間坑内に注水し鎮火後にすべての遺体の収容が終わったのは1982年3月28日であった。 死者は93名に上った。

 信子が取り仕切る「日高工業」の労働者も7人が犠牲になっている。炭鉱は危険な現場なので日高工業でも、労働者に保険をかけていた。 保険金は1億3000万円。遺族への弔慰金を差し引いても、信子には6000万円程が残った。

 事故の半年後、出所する安正を、新しく買ったスポーツカーに乗りブランドもののスーツを纏い、信子は迎えに行った。  安正が出所後すぐに夫婦は、白亜の二階建の豪邸をたてた。また、「日高工業」とは別に、安正はサラ金、信子は「ショップ88」という店を開いたが、 どちらもうまくいかなかった。商売はうまくいっていないのに金遣いは荒い。車は1000万もするリンカーン・コンチネンタル、安正 は競馬で一レースに100万円もつぎ込み、1日に1000万円をスッた事もあった。6000万円の保険金は2年半でほぼ使い切ってしまった。


保険金詐欺
 2年半、保険金の旨みで暮らしてきた2人は、夢よふたたびと思い、保険金詐欺を企てる。「日高工業」の会社の寮に火を付け、鉱夫もろとも焼き、保険金を 手にいれる。夫婦は石川清を計画を打ち明けた。

 石川清は、日高組に入って2年ばかりになる当時24歳の青年である。安正がクラブやキャバレーで遊ぶ時、車を運転するために酒も飲まず、背筋を伸ばして座っているような 実直な青年である。
 石川は計画を打ち明けられた時、当初は躊躇したが、「500万円ほどやろう。組での立場もずっといい顔にしてやる」と夫婦から説き伏せられ承諾した。石川の心を動かしたのは 金よりも「いい顔にしてやる」の言葉だった。


計画実行
 1984年5月5日、石川は寮に現れ、「しばらく坑内で仕事をすることになった。寮に入ることになった」と労働者たちに言い、自らの入寮パーティをやろうと提案した。 酒が友達の労働者たちなので異存はない。

 寮に住むのは労働者4人とまかない婦1人、その子供2人である。酒、肉、野菜を石川が買い込み、石川と労働者4人は、夕方から宴を始めた。皆が酔いつぶれてしまうと 石川はヤカンを空焚きしたが燃え上がらず、意を決しライターの火を新聞紙に近づけると炎上した。
 古びた障子から天井へ火が燃え上がっていき、石川は子供が2人二階で寝ていることを思い出した。石川は眠っている子供たちを揺さぶったが、子供たちはぐっすり寝付いていて目を覚まさない。 母親は一杯飲み屋の手伝いに出ていて留守である。火がすぐ後ろまで迫って来たため、石川は窓から飛び降りた。

 消防車が駆けつけたが、消防士1人も殉職する惨事となった。労働者4人と子供2人が死亡。夫婦は労働者4人の生命保険、総額1億3800万円を手に入れた。


発覚
 火災発生後、2階から飛び降りた石川は両足と骨盤を骨折し、「美唄労災病院」に入院し、7月には退院し組にもどたった。だが、次第に疑心暗鬼に囚われる。金は500万どころか7、8万しかもらっていない。 いい顔にするどころか、秘密を知っているのは自分だけであり、このままでは自分が殺される。
 石川は逃走先の当てもなく逃げ出し青森まで行く。日高組の逃走者への追っかけは半端ではない。東京まで飛行機に乗って追いかけ、連れ戻すと指4本をカンナの刃で切り落としたこともある。 そんなことが頭をよぎり、石川は青森で警察に自首する。石川の供述を受けて、8月19日、日高夫婦は逮捕された。 当社は犯行を否認していた2人であるが、やがては犯行を認めた。


裁判
 1987年3月9日、札幌地裁は日高夫婦にそろって死刑判決を下した。男女共犯の場合、女性は従犯と見なされ刑が軽くなることが多いが、信子はむしろ積極的だったとみなされ、死刑となった。
 日高夫妻は控訴するが、第4回控訴審の後の1988年10月、控訴を取り下げた。

 死刑判決となると、たとえ可能性が低くてもたいていは最高裁まで争う。命がかかっているから、納得いくまで審理してもらいたいと思うのが当然の心理である。しかし、日高夫婦は 控訴を取り下げた。

 1988年秋、昭和天皇の容態悪化を伝える報道が相次ぐなか、恩赦があるのではと夫婦は期待したのである。恩赦の対象になるためには、刑が確定していないといけない。そこで夫妻は 控訴を取り下げ自ら確定死刑囚となった。命で償うと決意したのではなく、生きたいがためであった。
 しかし、恩赦は一切行われなかった。安正は「控訴取り下げは昭和天皇の死去で恩赦があると勘違いしたため」として、審理再開申し立ての特別抗告を最高裁に行ったが、1997年6月に 最高裁はこの抗告を棄却した。

 1997年8月1日、札幌拘置所で日高夫婦への死刑が執行された。

 共犯の石川清は無期懲役となった。


<参考資料>
  ・女性死刑囚―十三人の黒い履歴書 深笛義也 (著) (鹿砦社)




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